
ご由緒
浪華名所獨案内

大阪玉造繁栄之図(天保期)

当神社は、垂仁天皇18年(紀元前12年)の秋に創祀され、古代には社域が難波玉作部の居住域となった事から「玉造」地名発祥の地となった。用明天皇2年(587)に改築し、聖徳太子が仏教受容問題で物部守屋と争った際、この玉作岡に陣を敷き「我に勝を与えるならこの栗の白木の箸に枝葉を生ぜしめよ」と戦勝を祈願すると箸から枝葉が生じ、無事物部氏との争いも勝利した事で、太子自ら十一面観音像や多聞不動像を作り、観音堂を当地に建立した。
その後、天正4年(1576)の兵乱により本・末社、旧記等焼失したが、豊臣秀吉の大坂城築城により社域の多くが「三の丸」「城下町」として整備され、慶長8年(1603)には豊臣秀頼により社殿、高殿(舞台)が再建された。
大坂の陣で、当地は再び戦地となり被害をうけたが、元和5年(1619)に徳川幕府の大坂城代内藤紀伊守を始め、氏子・崇敬者の寄進を以って再建。別称は豊津稲荷神社とも呼ばれ豊臣・徳川時代を通じ「大坂城の鎮守神」として崇敬されたことが史料に残る。また、江戸時代に流行した伊勢参り(おかげ参り)では西日本の玄関口として多くの旅人で賑わい、出発地として道中安全の祈願を行い、旅人らを見送った。
しかし、文久3年(1863)11月の大坂大火(新町焼)を経て、明治4年(1871)氏子・崇敬者により再建。
国家管理時代の社格は府社となり、その後昭和20年(1945)6月1日の大東亜戦争(第二次世界大戦)の戦禍を受けたが、戦後は新憲法のもと宗教法人(神社本庁)玉造稲荷神社となった。
社殿は昭和29年(1954)10月15日にご遷座。昭和51年(1976)5月には、皇室より三笠宮寬仁親王殿下をお迎えし、創祀二千年祭奉祝事業達成祈願祭を盛大に営み、平成元年(1989)6月創祀二千年祭を挙行し、玉造稲荷神社分社を大阪市中央区上町1丁目に分祠した。
平成27年(2015)8月20日に三韓館とゆかりある松ノ木大神、二吉大神、若松大神(大阪市中央区玉造2-19に鎮座)、平成30年(2018)9月26日に豆市大神(大阪市中央区上町C番)を合祀し、令和2年(2020)春には、コロナウイルスの終息と民の安全を願い、江戸時代からゆかりのある梅薬師・道祖神を祭祀し、現在に至る。