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境内石碑について

伊勢参り起点碑

江戸時代のお伊勢参りでは、大坂以西の旅人達が玉造稲荷神社に参り、道中の安全を願い旅立った。この旅を引き継いで始められた「初詣・伊勢迄歩講」(主催:大阪ユースホステル協会)の起点もこの石碑である。

 

側面に「是より神宮まで百七十キロ」とあり、裏面には「勾玉の造(みやつこ)たちの頸飾り、菅の御笠にいざ旅立たむ」と歌が刻まれている。

伊勢参り起点碑

豊臣秀頼公奉納鳥居

慶長8年(1603年)に秀頼公より奉納され、400年の歴史を刻む。

大阪での石製鳥居としては、四天王寺正門の鳥居と共に古いといわれている。

 

玉造稲荷神社が大坂城の鎮守神として祀られ、特に居城された秀頼公、淀殿らの崇敬が篤かった。この鳥居はそれを物語っている。阪神淡路大震災により、基礎に損傷を受け、上部・脚部に分け境内に現存する。

豊臣秀頼公奉納鳥居

千利休居士顕彰碑

豊臣時代、玉造禰宜(ねぎ)町の地で千利休が屋敷を構えていたと言われ、恒例の秋のだんご茶会も、豊臣家が野点の利休の茶会を楽しんだという故事にちなんだものである。

 

この利休ゆかりの地に顕彰碑を・・・という大阪青年会議所の音頭で、昭和52年5月に完成。また、この石碑には利休居士15世にあたる千宗室宗匠の筆による利休の茶の心「和敬静寂」が彫られている。

千利休居士顕彰碑

毛利家 刻印石

元和6年(1620)からはじまる徳川家の大坂城再築の際、長州藩(藩主 毛利秀就)より運ばれた石材。当時の玉造は、石垣の石材置き場となっており、大坂城には使用されず、神社石垣として400年間使われていた。

令和2年(2020)6月、新型コロナウィルスに伴う「梅薬師 道祖神」の石垣の組み替え中に発見された。

石材には、毛利家の刻印である「一」と「〇」印が刻まれている。

毛利家の刻印である「一」と「〇」印
毛利家 刻印石

大坂三十三所巡り・第十番札所碑

元禄時代、玉造稲荷神社に観音堂があり大坂三十三所観音の第十番札所であった。

 

それは、近松門左衛門の「曾根崎心中」や「卯月の紅葉」など、浄瑠璃の中に多くの参拝者でにぎわっていた当時の情景が描かれていることでも知られている。

大坂三十三所巡り・第十番札所碑

猫間川川浚碑

天保10年(1839年)に建立。神社の近くを流れていた猫間川は、埋め立てられて今はないが、かつては川船が往き来し玉造の地の発展を支えた。

川底が浅くなり、船の運航が困難で商いが成り立たないという事情から、天保9年浚せつ工事が行われ、その時の工事完成の記念碑がこれである。

 

工事のために多額の資金を投じて協力した地域住民とし富裕商人であり、国学者、歌人でもある佐々木太郎(別名を佐々木春夫、万屋小兵衛)の名が知られる。

石碑は角柱で上部に四角い穴(灯火を置くための火袋)があいて、ちょっと変わった形をしているのは、夜間の船の往来を守った灯台の元祖だからである。

猫間川川浚碑
『浪花 玉造猫間川之図』 歌川貞芳

『浪花 玉造猫間川之図』 歌川貞芳

聖徳太子 偲び石

用明天皇2年(587)の秋、仏教問題で物部守屋と争った聖徳太子は、当地に陣を敷き「我に勝を与えるなら、これに枝葉を生ぜしめよ」と栗の白木を挿し、戦勝を祈願した。後に栗の白木から見事な枝葉が生じ、勝利を得た太子は、自ら十一面観音像や多聞不動像を作り、当地に観音堂を建立した。多くの史料に記されている観音堂であるが、明治期の神仏分離令により、その務めを終えた。この偲び石は、唯一現存する観音堂の考古遺物であり、太子を偲ぶものである。
現在では太子を偲ぶと共に、栗の白木を偲び石前で挿し、勝利や合格を願う〝願い石〟となっている。

聖徳太子 偲び石

聖徳太子 偲び石

太子の栗白木

太子の栗白木

小野小町歌碑

古代、上町台地の東側は海水の浸入する江湾地帯であった。生駒金剛連山を見渡す景勝の地であり、平安時代に至っては大和川が流れ、その玉造江を小町が通った際詠んだ歌である。

湊入りの玉つくり江に

こぐ舟の音こそたてね

君を恋ふれど

「新勅撰集」より

小野小町歌碑

「玉造黒門越瓜ゆかりの地」記念碑

江戸時代に玉造の名産であった玉造黒門越(白)瓜。当時、玉造は伊勢参りの旅客で大変賑わい、玉造門(黒門:現・大阪市中央区玉造1丁目)を通り多くの人が行き交った。明治中頃まで高津屋吉右衛門家による白瓜市場も建てられていたが、明治後期から玉造の近代化が進み、畑地を始め、玉造黒門越(白)瓜も玉造からその姿を消した。この瓜が再び玉造に戻って来たのは平成14年(2002)の事である。地元野菜の復活を記念し、平成16年(2004)7月に(社)大阪外食産業協会 会長・田舞喜八郎氏のご揮毫奉納により、江戸時代に高津屋吉右衛門の肝煎地であった稲荷山を臨む当神社畑に石碑が建立された。

「玉造黒門越瓜ゆかりの地」記念碑

秋田實笑魂碑

「秋田實笑魂碑」と自然石を生かした、漫才作家・秋田實をしのぶ碑。

「笑魂碑」には、「笑いを大切に。怒ってよくなるものは猫の背中の曲線だけ」と秋田實さんの言葉が刻まれ、自然石の方には秋田さんの辞世の句「渡り来て うき世の橋を 眺むれば さても危うく 過ぎしものかな」が刻まれている。

 

秋田さんは神社近くの生まれで、こどもの頃最も親しんだ遊び場が玉造稲荷神社の境内であり、神社の夏祭にも楽しい思いでがいぱいつまっていたのである。

玉造かいわいは、その昔寄席があり、漫才師、芸能人が多く住んでいた。いわば、上方芸能ゆかりの地でもある。

 

昭和52年10月秋田さんが亡くなって、演芸評論家の吉田留三郎氏を中心にミヤコ蝶々、夢路いとし・喜味こいし秋田Aスケ・Bスケといった上方漫才師の間で「秋田さんの記念碑を・・・」という機運が盛り上がったおり、秋田さんにとって安住の地にちがいないという事から、玉造稲荷神社が選ばれた。例年7月15日夏祭宵宮に奉納演芸が行われている。

秋田實笑魂碑

なで子持曲玉石/子福桜   ※子授け

玉のなかでも特異な玉が曲玉(勾玉)と言われている。子持勾玉は古代5世紀頃に出現し、御魂の増殖に連がるものと考えられ、稲の豊作などを占った。

 

社殿の前の“子の悩み”「なで子持曲玉石」は子孫繁栄、子授け、芸能向上、事業振興に霊験あらたかでありますようにと願いなでられる。また、神から見れば「我々もみな産みの子」となる。

なで子持曲玉石(正面)

なで子持曲玉石(正面)

子授守

子授守 

なで子持曲玉石(上部)

なで子持曲玉石(上部)

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子宝の桜・子福桜

子持曲玉土鈴

子持曲玉土鈴

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子福桜の花

安産守

安産守

子福桜守り

子福桜守り

浪花講発祥の地碑/道標   ※分社にある石碑

分社の地で文化元年(1804)に浪花組として創業し、天保12年(1841)に浪花講へ名称を変更した協定旅館(旅行社)の祖。当地が上方落語『東の旅』に所縁があり、平成26年(2014)に噺家の四代目・桂文我氏の声掛けによりこの碑が建立された。また、分社北側の道は戦前まで「伊勢街道筋」と呼ばれ、商店が東西に軒を並べ、江戸期の「お陰参り」から続く賑わいをみせた。当時の旅人らを見守った道標(文政4年(1821)建立)には「左 なら伊勢道」「右 京橋」などと刻まれ石碑の裏に現存する。また、この道標横には、伊勢の銘木「横輪桜」が寄り添って立っている。 

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「浪花講発祥の地」碑

道標と横輪桜

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