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豊臣秀頼公

豊臣秀頼公

秀頼公人物

豊臣秀頼は豊臣秀吉と淀殿との間の第2子として文禄2年(1593)8月3日に大坂城で誕生した。一般には勝気な母・淀殿に対して、情けないマザコン男というイメージを持たれている。京都・養源院に伝来する、瓜実顔で線の細い少年画像もひ弱なイメージにいっそうの拍車をかける。

けれども、実際の秀頼は「大兵にて御丈6尺5寸余り(約197cm)」(『明良洪範』)、「世に無き御太り」(『長澤聞書』)などと記されるように、超のつく巨体漢であったらしい。

 

だからといって立派な人物だったとはいえないが、その点についても、秀頼は天下人2世として幼少の頃からさまざまな教養を身につけ、帝王学を学んでいたから、『明良洪範』などは「カシコキ人ナリ、中々人ノ下知ナト請ヘキ様子ニアラス」(たいへん賢い人なので、他人の臣下となってその命令に従うような人物ではない)と記している。

豊臣秀頼公像(銅像3m/台座3m)

豊臣秀頼公像(銅像3m/台座3m)

多くの識者協力のもと当時の姿が再現され、大坂城鎮守神が鎮まる当神社本殿及び大阪城天守閣を望むように建立された。

秀頼は、関ヶ原合戦後の慶長5年(1600)、摂津・河内・和泉3カ国を領する65万石余の1大名に転落したといわれる。けれどこれまた疑問がある。

 

史料が乏しいため、秀頼所領の全貌を復元することは難しいが、わずかに残された史料からでも、秀頼の領地が摂・河・泉をはるかに越えて、山城・大和・近江・伊勢・美濃・丹波・備中・讃岐・伊予にまで広がっていたことが確認される。また、東は信濃の善光寺から西は出雲大社まで、秀頼は100ヶ所以上の寺社を復興したが、その際、現地の大名を奉行に任命している。

 

年始・歳末や端午・八朔・重陽などの節句には、全国各地の大名から秀頼に祝儀が届けられ、毎年年頭には、勅使以下、親王・門跡・公家が残らず大坂城に下向して秀頼に年賀の礼を述べた。これら全ての事象が、秀頼が決して1大名などではなかったことを証している。

 

実は、豊臣秀吉の代に武家の家格が公家のそれにならって定められ、豊臣家は摂関家となり、徳川家や前田家・毛利家など5大老の家は一段低い清華家に位置付けられた。この家格は徳川家康が将軍になって以降もいまだ有効で、秀頼は摂関家の当主であり、将来の関白の有力候補だったのである。

 

慶長3年(1598)8月18日に父秀吉が亡くなった際にその後継者として家督を継いだ秀頼はわずか6歳に過ぎず、慶長19年・20年(1614・1615)に勃発した大阪冬の陣・夏の陣に敗れ、母淀殿とともに大坂城の山里曲輪で非業の最期を遂げた。

 

秀頼の22年間の短い生涯は、政権簒奪の野望をむきだしにする徳川家康とのせめぎ合いに終始した感がある。結果として、秀頼は敗者となったが、秀頼が関白の有力候補として大いに将来を嘱望される存在であったことは紛れもない事実で、多くの民衆から支持され、徳川幕府に対峙する一方の雄として、格別の権威をもって大坂城に君臨した。

大坂冬の陣(1614年)における当神社(中央)付近の布陣図

大坂冬の陣(1614年)における当神社(中央)付近の布陣図

大坂の陣四百年慰霊祭

1615年5月7日正午頃、「大坂の陣」最終決戦(夏の陣)が当地にて開戦。

同日午後3時頃には、豊臣方が大坂城内へ退却。同日午後5時頃城内より火の手があがり落城。翌8日正午過ぎには、千姫の懇願かなわず秀頼公、母・淀殿が自害したといわれてる。400年後の平成27年(2015)5月7日には、秀頼公をはじめ豊臣方、また徳川方の将兵、町人、村人など多くの戦没者に対する慰霊祭を斎行。

大坂の陣四百年慰霊祭-1
大坂の陣四百年慰霊祭-2
大坂の陣四百年慰霊祭-3
大坂の陣四百年慰霊祭-4

400年後同日同刻となる平成27年5月7日午前11時始祭。

 

サントリーホールディングス株式会社 副会長 鳥井 信吾 様 及び森下仁丹株式会社 代表取締役社長 駒村 純一 様 両名を祭主とし、大坂の陣に関わる多くの関係者参列のもと斎行。

秀頼公ゆかりの境内史跡

胞衣塚大明神(よなづかだいみょうじん)

秀頼公と母・淀殿を結ぶ胞衣(卵膜、胎盤など)が鎮まる。胞衣は、母の体から共に生まれ出だしたものゆえ、当時では特に神聖なものとして、また秀頼公の「分身」として扱われた。

胞衣塚大明神(よなづかだいみょうじん)
縁のひも
縁のひも掛け

縁のひも

豊臣秀頼に仕えた武将・真田幸村ゆかりの真田紐で作られ、家族の縁、親子の縁、男女の縁、主従の縁、仕事の縁など様々な縁の願いを縁のひも〟に記し胞衣塚大明神前〝縁のひも掛け〟に結び祈願する。

 

画像は縁のひも と 縁のひも掛け。

秀頼公奉納鳥居

秀頼公奉納鳥居

慶長8年(1603)3月に秀頼公が神社再興時に奉納された鳥居。

元は本殿正面に位置したが、阪神大震災により一部損傷を受け、上部、脚部に分け現在の場所で保存。

秀頼公銅像建主

当神社は垂仁天皇18年(紀元前12年)に創祀され、豊臣秀吉の大坂城築城の際には大坂城の鎮守神として崇められた。当時、神社付近には前田利家、宇喜多秀家、細川忠興、島津家久、鍋島勝茂など豊臣方の武家屋敷が軒を並べていた。

特に秀頼公、母・淀殿の崇敬は篤く、当時社領5百石を寄進され南玉造町(現在・大阪市天王寺区玉造本町)が朱印地となり、慶長8年(1603)には片桐且元、加藤嘉明に命じ天正年間に荒廃した社殿を再興し、その銘が入った鳥居も境内に現存する。また、同じく境内には秀頼公と母・淀殿を結ぶ胞衣(卵膜・胎盤など)を祀る胞衣塚大明神が鎮座している。

 

この秀頼公ゆかりの地である当神社に現・大阪城築城80周年の節目である平成23年(2011)、篤志家等の協力のもと「豊臣秀頼公銅像」が10月13日に除幕竣工された。また銅像は、文化勲章受章・日本芸術院会員の中村晋也氏が当時の史料を基に制作された。

銅像建主過程

銅像建主過程-1
銅像建主過程-2
銅像建主過程-3
銅像建主過程-4
銅像建主過程-5
銅像建主過程-6

秀頼公銅像建主

〈豊臣時代の玉造に屋敷を構えていたといわれる武家・町人のご紹介〉

 

前田利家・前田幸長・宇喜多秀家・島津家久・鍋島勝茂・明石守重・・・(岡山町)

細川忠興・・・(越中町)、浅野長政・小出吉英・古田重然(織部)・千利休・・・(玉造町)

増田長盛・・・(仁右衛門町)、浅野幸長・浅野長晟・・・(紀伊国町)

前波半入(または青木半入)・・・(半入町)、小出吉親・・・(元伊勢町)

曽呂利新左衛門・・・(八尾町)

当神社の史料及び櫻井成廣氏の推定より

※(町名)は旧町名

豊臣時代の大坂城を歩こう!

豊臣大坂城MAP

広大な豊臣大坂城のご案内
osakajyo.pdf
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