
秋田 實

秋田 實
(1905~1977)
漫才作家
大阪府大阪市玉造出身
生誕
秋田實(本名・林廣次)は、明治38年(1905)7月15日に林佐一郎といしの次男として当神社付近で生まれ、小学6年生までこの地で過ごす。

神事に参加する秋田 實
幼少期
当神社境内には舞台があり、安政4年(1857)に幕府から公許を得て、大坂で演芸が出来る9社の一つであった。その舞台は明治13年(1880)に再建され「奉納演芸」を行っていたことから、玉造に芸人が住み、芸人が集う場所となっていた。幼少の秋田實もよくこの境内で遊び、演芸好きな両親と共に寄席にも通っていた。
秋田實の幼少期の玉造は、日露戦争を経て大阪造幣司(現在の大阪城公園に設立)が大阪砲兵工廠、陸軍造兵廠大阪工廠へ拡大し、そこに勤める工員達の居住地となって行った。(※秋田實の父も工員の一人である) 工員たちの生活の場となった玉造には活気が溢れ、その影響により当神社西側の稲荷筋、旧伊勢街道、日の出通り商店街では商店や娯楽施設が軒を並べ、独特の雰囲気を持つ歓楽地となっていった。

再建された舞台
玉造界隈にあった娯楽施設

玉造・娯楽施設のチラシなど(戦前・ 戦中)

昭和10年 頃の日の出通り商店街・
玉造座付近

春野館上棟祭 「吉本せい」も参列
(前列右から3番目)
春野館(旧:東雲席) 大阪市中央区玉造1-8-5
城東劇場 大阪市中央区玉造1-3-9
富貴席(旧:梯亭)※ 大阪市中央区上町1-26-13
澤井亭 大阪市中央区谷町7-6-34
三光館 大阪市天王寺区玉造元町7-7
ヤマト館 大阪市天王寺区玉造元町8-26
朝日座 大阪市天王寺区玉造元町3-26
玉造座 大阪市天王寺区玉造元町6-1
弥生座 大阪市東成区東小橋1-8
玉造中本倶楽部 大阪市東成区中本4-7
※風呂政…
明治43年(1910)、玉造で銭湯(大阪市中央区法円坂1-3-2)を経営していた岡田政太郎(通称:風呂政)は「梯亭」を買収し、「富貴席」を設ける。明治の中頃より落語界は跡目争いから桂派と三友派に分かれ、また映画の台頭により庶民の娯楽が多様化していく。その中、落語界の両派に属さない芸人を「富貴席」に集め「反対派」を結成し、後に同じ立場の吉本(のちの吉本興業)と手を結び「吉本・岡田反対派連合」を結成した。この連合の成功は、安くて面白い演芸に力を注いだことから、落語中心の寄席から諸芸を見せる寄席へと推移していく。
青年期
今宮中学校を卒業し、大阪高等学校へ進学した秋田實は、そこで生涯の兄貴分・藤沢桓夫、生涯の友・長沖一と出会う。またこの頃、外国の本や雑誌から「世界の笑い話」に興味を持ち始め、その後、東京帝国大学文学部へと進み作 家としての基礎を身につけた。
漫才作家へ
秋田實の人生を大きく変えることとなったのが、横山エンタツとの出会いである。昭和5年(1930)にエンタツは吉本興業の専属となり、花菱アチャコとコンビを結成する。当時エンタツは玉造に住み、当神社舞台にてアチャコと共に「吉本の手見世を受けるんや」と「萬歳」の練習やネタ合わせをし、のちに二人は玉造の三光館でデビューすることとなる。その翌年に秋田實は、エンタツと出会い「萬歳」に対する考えに意気投合する。その考えとは、当時男性客中心の卑猥で低俗な内容が多かった今までの「萬歳」を、女性や子供にも安心して聞かせられる「無邪気な笑い=漫才」へと脱皮を図るものであった。同年、漫才の台本を初めて手掛け、漫才作家の道へ歩みはじめる。秋田實が漫才台本を書き、舞台でエンタツらがそれを膨らませていく。これが現在の「しゃべくり漫才」の基礎となり、後世に引き継がれていく。

秋田 實・直筆漫才原稿

秋田 實(中央)・横山 エンタツ(左)・古川 ロッパ(右)
漫才が全国へ
昭和6年(1931)、吉本興業と朝日新聞の協賛により、満州地方に駐屯している兵士を慰問するため、エンタツ・アチャコらは現地へ送り出された。ここでの活躍がたびたび新聞で掲載され、二人の知名度を押し上げる。さらに昭和9年(1934)、漫才「早慶戦」がNHKラジオで放送され、漫才師エンタツ・アチャコ、漫才作家秋田實の名は全国へと広がっていく。この頃秋田實は吉本 興業に席を置くようになり、漫才の人気から漫才映画の原作を書きはじめる。これらの映画は漫才を大衆娯楽のトップに押し上げ、新聞や雑誌はこぞって漫才を掲載し、漫才コンビのレコードが次々に発売された。

エンタツ・アチャコ

真空管ラジオ
若手漫才師育成
秋田實は、エンタツ・アチャコのコンビ解散後も漫才台本、映画の脚本、ラジオの台本、自身の出版物を書き続けるかたわら、雑誌『ヨシモト』の編集も執り行っていた。この頃、吉本 興業内では新人漫才師を養成する「漫才学校」が設立され、その校長として尽力する。漫才師独自の〝面白さ〟に自らのユーモア溢れる漫才台本が交じり合えば傑作が生まれると信じる秋田實にとって、漫才の型を持たない〝面白い人間〟を探し、自らが書く新作漫才をこなしてくれる人間を純粋に育成したかったと思われる。

雑誌「ヨシモト」